某Jの日記


 投稿者:某J  投稿日:2001/12/20(木)02時20分20秒  ■  ★  

      Д`)はぁ〜
      糞長い駄文を書き終えた後冷静になると一体自分は何と馬鹿なことを
      しているんだろうと思わず胸がつかえる気分に襲われるさ
      もう長文を書くのは一切止めることにするさ
      これからはその日の出来事箇条書きにすることにしたさ
      鬱る
      クサッ


日記1  投稿者:某J  投稿日:2001/12/20(木)03時01分17秒  ■  ★  

      12月19日の日記。

      朝の八時に目覚ましで起きる。一通り準備支度を終え外出する。途中中央線が
      止まる。車内で貧血で倒れた奴でもいたらしい。こっちはダイヤ通りの仕事に
      金を払っているのであり、不測の事態に窮する鉄道局側の都合などは知ったこと
      ではない。倒れたいのは実際に倒れた奴ではなく足止めを食らうこっちの方だと
      小言めく裡に授業開始の時刻はとうに過ぎていく。

      大学で授業。ヘーゲルを絶対無の思想と読むといったところで、そもそも感性によって
      しか感知し得ず、且つ、悟性の限界を条件付ける物自体という真理のカント的前提を
      無として掻き消し、悟性的位相から否定理性的位相、そして肯定理性的位相へと
      自己意識が進展していく時間的過程の中で全ての有及びそこへの固執が無という
      起源=目的への流れの中で解消されていく実態を精緻に説いたヘーゲルを取り上げて
      今さらそんな角度からウンヌンされてもつまらないが、単位の問題上行くしかない。
      しかし意想外に面白いのでかなりマシ。

      授業終了後月賦屋でお買い物をした後、電車に乗り座席に座れば湧き上がる
      睡魔に勝てぬままに降車駅を二つ乗り越し慌てふためく。バイトに行くための用意の
      時間はほとんどない。家で残り少ない時間を傍目にパンと珈琲を少しばかり摂る。

      寒風の中無事バイト先に到着。嫌々ながら、しかし、それなりに真面目に仕事を淡々と
      こなす。大学受験生の現代文講釈のための論説系文章に外山や小林、今村や柳などが
      出されているので、案外面白く読める。世界史は西欧近代史以外はほとんど覚えて
      いないが、何とかなる程度には大丈夫。

      帰宅途中に新装開店した古本屋に立ち寄る。まだ持っていない筒井や谷崎、漱石の
      文庫本を少し、ちょっと前に思いだした向田、ついでに井伏を改めて、どこかに消えた
      カポーティも含めて買ってってみる。ハードカバー系のコーナーに立ち寄ってみると、
      島田や村上春樹の初期作品が並んでいたので思わず笑った。そういえばまだこの
      二人の近作を読んでないが、基本的にどうでもいいだろうものしか書いてない輩に
      時間を割くのは少し勿体ない。そのうち手持ちぶさたになったら読むことにしよう。
      そう言えば島田はまだ近畿大学の助教授の仕事をやってるんだろうか。

      帰宅。遅い夕飯を食べながら、パパパパパフィーを観る。やる気がないなら降ろして
      もらえばイイのに、腐れ縁の惰性もここまで行くと妙。チャンネルを廻すと筑紫の顔が
      目に入り、少し不愉快になる。

      珈琲を飲みながらサロン、クリ島、もも本店、メイソのログを順にボーっと読み流す。
      ぁゃιぃの中でも時間の止まったこの微温的な光景に斉藤緑雨の職人芸批評を
      想い出しながら、いつも通りの長文を書いてみる。明日も早いが、今週で授業も
      本年度分は終わりだ。終わったところで来週からは冬期講習のバイトがあるので
      あまり休みも糞も関係ないらしい。相変わらず山のようにレポートもある。もうすぐ
      クリスマスだが今年はどうなるのか。


日記2  投稿者:某J  投稿日:2001/12/22(土)02時30分30秒  ■  ★  

      12月21日の日記。

      朝十時に目覚ましで起きる。適当に身支度を整え一服を入れてから外出。玄関を出ると
      曇天の空模様の下にかすかながらもみぞれ雨が降っている。愕然とする。しかしただ
      愕然としているほどの余裕もない。傘をさし最寄り駅まで多少濡れながらも到着する。
      時刻はおおよそ正午を回ったばかり。

      大学到着。授業は三つ。いつもと変わらぬ授業風景。近代文学の授業で川端の
      「片腕」の語り手がおおよそ一人称だから私小説的構造を前提にしているなどと
      宣う教授の講壇学者じみた講釈に本日二度目の驚愕を経験する。どぶ川にいくら
      投げ銭しても何の御利益もないことを改めて認識する。授業終了後外に出ると
      雨は既に止んでいた。購買で今月の文學界と早稲田文学を購入する。その後
      雑事を通しに図書館を多少うろつき部室に行くと酒盛りが行われていたので
      参加する。呑み足りない帰り際に後輩の部屋へ立ち寄る。酒宴と四方山話で
      暇を開いて終電の頃合いを見計らい部屋を後にする。時刻は二十三時前後。

      終電間際の満員電車に乗り込む。阿呆のように混雑している。乗り降りの慣性に
      身を任せながら一駅毎に乗降する同乗者の「すいません」のかけ声に謝るぐらいなら
      初めから乗るなと無表情の内心で愚痴るうちに最寄り駅に到着する。

      帰宅途中に総合雑貨形式の古本屋に立ち寄る。スマパンのベストが発売されていた
      事実にまたもや驚く。買うか買うまいか迷いながら結局買わずに店を出る。コンビニで
      諸々の買い物をして家路につく。いい加減寒すぎる。気候の周期性が精神体質の
      循環性をもたらすと記していた和辻の風土論を少し想い出す。しかし人が社会的に
      存在するとき必ず何かによって他律させられる受動性の契機を経なければならない
      ことは小難しく言うまでもなく当たり前だ。暑ければ人は薄着になるし寒ければ
      人は厚着をするものだ。ある超越論性による主体定立の受動的契機を間断なき
      時間性において把捉するのでなく生きた空間性において把握しようとすれば
      共同体のライプニッツ的思考に帰着するのも当然ではないか。生きられる
      空間で見出される共時的結合は分析の手によって対象化されるかぎりで
      知られる空間に過ぎず、そこでは表象の代行作用による一般化の粗雑さも
      避けられず、通時性と共時性の混同すらも絶えず行われかねない。倫理学は
      和辻の言うような人間の学などではない。そもそも人間という概念自体が
      そこでは普遍化される陥穽を免れ得ない。倫理とはそのような概念の前提を
      問いただす終わりなき分析のことを指すものだ。人間学は道徳に過ぎない。
      そして共同体の学問などは元々つまらないものだ。そこでは必ず何かが
      隠されているからだ。このようなことを瞬時に考えると同時にあまりの寒さの
      せいで瞬時に忘れる。それにしても明日からは何かと大変だ。風邪も治らない。


日記3  投稿者:某J  投稿日:2001/12/23(日)05時07分05秒  ■  ★  

      12月22日の日記。

      昼の一時頃目を覚ます。二度寝する。三時頃目を覚ます。寝ても不快感しか募らないので
      いい加減蒲団から出て所用を終える。珈琲を飲みながらレポートの流れを考える。

      レポート一つ終了。メルポンとラカンを相互比較しながら身体からの主体生成を論じつつ
      カントとハイデッガーによって話を締めくくるような内容。あまり書いていて面白くない。
      所要時間は七千字前後を二時間弱。少し時間がかかりすぎた。

      レポート二つ目終了。「リア王」をキルケとハイデッガーを逐次参照にしながら
      前近代と近代との確執の構図として論じる。更に面白くない。所要時間は
      一万字前後を三時間弱。どうしても時間がかかりすぎる。

      レポート三つ目着手。ヘーゲルと西田の親近性を主軸に日本人の思考体質を
      双方の文字の起源から論じようとする。途中で飽きた。これとグノーシス主義に
      関する英語レポートは明日に持ち越し。

      テレビを点けたらワールドプロレスがやっていた。酒を飲みながら目に留める。
      健介が頭を丸めていたことを初めて知る。馳の代議士レスラーが云々のテロップに
      爆笑する。その後フジの深夜番組の生ぬるさを傍目にする。何だあれ。殿様の
      フェロモンの再放送でもした方がイイんじゃないの。常磐の事務所サイドが差し止め
      しそうだけど。それにしてもアギトの開始時間に起きれるか否か、それこそが問題だ。


日記4  投稿者:某J  投稿日:2001/12/25(火)04時54分30秒  ■  ★  

      12月23日から24日までの日記。

      23日。夕方四時頃目が覚める。二度寝をする時間でもないので身上雑事を
      済ませて煙草と珈琲を買いに外に出る。帰宅後テレビを点けるとロンブードラゴンが
      放送されていた。サンタに扮して子供達の夢を叶えようとする企画らしいが、観ながら
      ルソーの影響の凄さを改めて感じる。明治国家において言文一致的な標準語を通して
      統一的な市場経済の中へと崩壊した村落諸般の共同性の相互感情を想像的に
      回復しようとする事業の一環として展開されたに過ぎない児童文学の表象は今や
      自明性のものと成り果てたのかと改めて驚きもする。ルソーに汚染される前の子供の
      実態を記録しようとした柳田が当時の和歌経由の自然主義を批判した理由が何となく
      分かる。これは案外に怖いことだ。そんなことを思いながら昨日のレポートの残りに
      手を着ける。ヘーゲルと西田の親近性は簡単に書き終わるが、そこから文字論を
      導入した上で日本文化論にまで話の尾翼を拡げる出だしに難渋する。短い枚数で
      まとめようとするとどうも文体が硬直的な大雑把さで単調に貫かれてくるので適宜
      補正し細部に凝ろうとすると今度はやたらと冗長になってくる。単なる提出レポートに
      四千字詰め二十枚もの徒労を割くだけの必要があるのかどうかを考えてうんざりする。
      こんなことを考えている自分にも更にうんざりする。うんざりの相乗効果を一人で
      高めているうちに既に時刻は夜中の一時。あまりにも阿呆らしくなったので再度中断。
      知人に電話をかける。三時間半ぐらい話し合う最中にふと今日はもう一方の知人との
      集まりがあったことを思い出す。その後再びレポートに着手する。だがまだ上手く構想が
      練れない。いいかげん馬鹿馬鹿しくなってきたので明日の運気に身を任せて眠りに就く。
      朝焼けの光が室内を薄暗く照らす時刻は既に朝の七時。

      24日。昼の三時頃に目を覚ます。昨日と同じように煙草と珈琲を購入しレポートの
      残りに着手する。だが一向に進まない。文字論の導入をも含めれば長々しくなるが、
      それを除けばそれなりに短くまとまりもつく。これは単なる授業レポートであり、卒論では
      ないと自分に言い聞かせて後者を採ることにする。一通り文章の整理が付いた後に
      携帯に電話がかかってきていることに気づく。昨日購入した本を一通り通読しながら
      酒を飲む。そういえば今日はクリスマスだ。別に日本は仏教国だからバテレンの宗教
      行事に一枚噛む必要もないだろうなどと悲しい遠吠えを熱っぽく振るう気は全くないが
      実際どうでもいいものだろう。コカコーラーの広報部が商業的に普及させたに過ぎない
      サンタの色彩が当たり前のものとして浸透しているところからも、クリスマスという行事の
      扱われ方がいかに資本制の経済的諸要因に規定されているかは馬鹿でも少し考えれば
      分かるものだ。資本制経済は非資本的な外部の育成を積極的に推奨しないと労働力商品
      という賄いが途絶えることにもなるわけだ。市民=国民を教育的に再生産していく
      ナショナリズム的制度の一部を担うメディアのやかましさも国家資本の再生産に
      関わるところにその一因を持っているのだろう。むしろそれ以前に無時間的に並列された
      外来思想が現実の時節に合わせた適宜適応さの裡に逐次引き出され活用されるという
      傾向性は丸山が示したように日本人の思考体質そのものを規定している大きな条件だ。
      日本独自の哲学と宣われる西田哲学も基本的にそのような無時間性の路線の上にあり、
      だからこそ日本独自とも僭称されることが許されているんだろう。戸坂も言うように西田哲学は
      ロマン主義的で詩的だ。散文を欠いた詩的な日本で対幻想の物語が顕揚されるのも
      当然であろう。まあ薔薇があるところでは踊っておいた方がいいが、踊る器量がないのなら
      黙っていればいいだけの話だ。明日は英文とイスパニア語のレポートだ。面倒。


 投稿者:某J  投稿日:2002/01/01(火)05時11分15秒  ■  ★  

      12月31日の覚え書き。

      六時前後に御茶ノ水に着く。帰省の時節柄ゆえにか町中にほとんど人足が
      目立たない。オースターの新刊を買いに三省堂に向かう途中に近辺大学の
      学生らしき集団が道端にたむろし数少ない往来者の交通を妨害する情景を
      目にしボーっとした感慨に心が疼く。なるほど大学卒業により市民−国民の
      素晴らしき理念形たる教員と同じような社会的地位を学生に保証してくれる
      暗黙の信用制度はニクソンショック前後の世界情勢の変動により実質的に
      終焉を迎えた米ソ二元構造の崩壊により失効した。そもそも戦後民主主義を
      支えていた福祉主義的リベラリズムは敗戦占領下において全面展開された
      ウィルソン主義の流れを汲んでおり、それが有効に機能したのも冷戦構造という
      ある種の微温的風景を前提にしているかぎり、致し方のないことだろう。
      マスコミが吹聴する就職難の時代云々という安易なキャッチコピーを大手を
      振るってまかり通らせる馬鹿は掃いて捨てるほど数え切れないが、それに
      したところでこのような情勢の萌芽は既に戦後民主主義的福祉政策の破綻という
      かたちで七十年代に実際的に到来したにも関わらずその後に割り込んできた
      消費社会とバブル経済の荒波の中で楽天的に隠されていただけに過ぎない類の
      ものだ。こんな事柄に今さらながら驚ける馬鹿にかえって驚きを隠せないのが
      良識の業というものだが、しかし大学を卒業さえすればまとまな職に就けると
      勘違いできる妄想が新左翼運動の時節に産学協同路線の欺瞞として糾弾されて
      いた過去にこの手合いは一体どのぐらい自覚的なのだろうか。新左翼運動の
      狂騒を無知の失笑の裡に看過する手合いに限ってこの運動を貫いていた祭りの
      妄想とほぼ同じ所を歩もうとしている事実に時代の反復強迫を感じずにいない
      ほうが既に無理だろう。加えてこのような大学生の自堕落ぶりに微苦笑する
      赤面症の学問馬鹿の心性すらも就職予備校という大学のイデオロギー装置を
      真理の大学というスローガンの下に乗り越えようとする初期革共同のそれと
      同じところを巡っている限りにおいて、ほとんどくだらない茶番を見せられる
      ような感覚に襲われざるを得ない。それに先行者の抹殺という父殺しへの衝動は
      父の支配圏域を結果的に強化する末路しか残されていないだろう。俺は学者
      先生の食い扶持稼ぎの手のひらにわざわざ乗ってやれるほどお人好しの馬鹿でも
      ない。産学協同路線に回収されない生の濫費に向かおうとする前者が大抵に
      おいて対幻想の性愛談義へと収斂していく宇多田的タイプだとするなら、真理の
      大学へと直参する後者は失われた自己を求め続ける浜崎的タイプということに
      でもなるのだろうが、どちらで踊るにしてもおそろしく退屈極まりない。その
      退屈さに耐えられる根性がかえって羨ましいぐらいだ。そして更に酷いことに
      この二つの精神性は既に大学生の閉域を超えて浸透した現代を支配する神話の
      主要形態なのだ。こんなことを考えるでもなく思いながら三省堂に到着すると
      既に閉店間際の店内にはうつろに蛍の光が流れている有り様。急ぎ足でオースターの
      新刊を買いレジに向かって精算を済ませた後にシャッターの降りた表口前に立つ
      店員の指示に従い裏口から店を出る。外には雪が降っていた。


 投稿者:某J  投稿日:2002/01/01(火)05時25分58秒  ■  ★  

      12月31日の覚え書き2。

      御茶ノ水近辺は大抵が店じまいの様相を見せているので仕方なく上野に出向いて
      よくよく行き着ける飲み屋でオースターの新刊を少し読む。多少読み慣らしたかぎりでは
      オースター作品にはよくある物語世界を透過的に見渡し、作中の諸契機を終わりからの
      回想を通して時間的に統合化していく近代小説の叙事性を前提にした上で、主人公が
      他者との関係を通して諸々に成長していく教養小説的な説話構造を今回も採用している
      みたいだが、やはり基本モチーフは関係と偶然に貫かれているようだ。関係の偶然性へと
      被投された受動的契機を通して事後的に形成されていく意識の機微、そしてその意識の
      位相を能動的に捉え返そうとする反復強迫の足掻きが行き着く破滅的な末路、その中間を
      絶えず不安定に揺曳しながら、この二つの次元を様々に往還する作中人物を見る主人公−
      語り手の視線、文化風俗へのリアリズム的言及、こういった諸相を通して物語が徐々に
      花開いていく様子を見せているが、まだ半分も読んでいないので実際は何とも言い難い。
      だが、このようなオースター的黄金律はNY三部作ではあからさまに、且つ、偶然の音楽
      以降では象徴的に現れてきた形式であり、作品が進むごとに語り口が洗練されていくのは
      読んでいて心地よい。しかしひっかかるのは翻訳の形式だ。何故日本語翻訳を読むと
      こうも物語世界が透明に浮き彫りになってくるのか。そもそも英語原著はこうも透明な
      世界観をたたえているのかが疑問だ。英語の現在進行形や完了形の様態などが
      日本語に翻訳されると必ず超越論的な私の意識によって全てがある結果から合理的に
      認識−支配される単純過去の時制へと絡め取られていくように、この翻訳形式にも
      その手の日本語に浸透した言文一致的な標準語の欺瞞が働いているように思えて
      隔靴掻痒の感に耐えない。第一、英語はフランス語のような国家主導で統制されて
      いった透明な言葉とは全く異なった雑多で不純な言葉の手触りを特性としているのであり、
      これほどまでに作品世界が前もって透き通るという事態はなかなか考えにくいように
      個人的に思わざるを得ない。オースターは元々詩人であって、表現主体に対する
      言語の不透明さへの省察は凡百とは異なる鋭さを持っているはずではないのか。
      その省察が関係と偶然への考察へと重点を散文的に移していったのであれば、
      当たり前といえば当たり前だがこれはオースターという米国作家の作品ではなく
      柴田という日本人の作品に過ぎない。やはり原著に当たらないと駄目なようだ。
      あいにく英語が読めるので何とかなりそうだが、それにしても日本語的な感性で
      読んだら何の意味もなくなるのも確かだろう。そういえば柴田は村上春樹と翻訳
      談義の共著を出したが柴田的な翻訳態でいったらオースターの作品もほとんど
      村上的な圏域に捕らわれたままだろう。村上作品は個人的にはダンスを三回の
      ところで終わっていて、あとはその反復を美学として延々と繰り延べしているだけに
      しか思えないが、しかしその語りのあり方は日本近代文学の中核を良い意味でも
      悪い意味でも最も理想的に体現しているからこそタチが悪いのだ。まあそれはどうでも
      イイとしてさっさと新刊の続きを読むことにしよう。その前に寝る。


週替わり日記、壱  投稿者:某J  投稿日:2002/02/13(水)03時51分12秒  ■  ★  

      金曜日

      02時30分起床、洗顔、歯磨き、珈琲及び煙草摂取、2時45分スガ秀実「日本近代文学の<誕生>」
      珈琲、ヴァレリー「レオナルド・ダ・ビンチ論」、小林秀雄「文芸時評、上」、8時食事パンサンドと珈琲、
      8時30分「日本近代文学の<誕生>」、「文芸評論、上」、15時食事カップラーメン一平ちゃん、
      16時外出、16時半から21時までバイト、22時バイト先の人達ともんじゃ屋、1時帰宅、ネット、
      書き込み少々、Great3、Tommy februrary6、彷徨、洗顔、歯磨き、4時頃就寝


      土曜日

      08時30分起床、諸雑事、珈琲と煙草、入浴、10時半「日本近代文学の<誕生>」、
      12時半食事カレー、13時録画ビデオ「サラリーマン金太郎3」「TRICK2」「From UK」
      「Zoom」、ネット少々、16時半スガ秀実「探偵のクリティック」、珈琲、橋川文三「日本
      浪漫派批判序説」、Tommy february6、Spiritualized、水、19時半食事鉄火丼、
      「探偵」「批判序説」、23時ドラクエ6、26時半外出、コンビニで立ち読み、ビールと
      つまみ、煙草購入、27時15分帰宅、ネット、検索、ドラクエ6、歯磨き、洗顔、30時就寝


      日曜日

      07時15分起床、洗顔、煙草、百獣戦隊ガオレンジャー最終回、食事パンサンド、
      珈琲、仮面ライダー龍騎、8時半ネット、10時スガ秀実「探偵のクリティック」、
      保田輿重郎「文芸集」、江藤淳「作家は行動する」、生きられる現在、The Smiths、
      13時半入浴、14時半珈琲、江藤淳「奴隷の思想を排す」、16時外出、煙草購入、
      16時半、ラカン「エクリT」、18時仮眠、20時食事色々、20時半珈琲、Tommy 
      february6、意識の散文化、The Stone Roses、21時半サラリーマン金太郎3、
      22時「探偵のクリティック」、24時半ドラクエ6、諸雑事、28時就床


      月曜日

      04時15分立床、外出、コンビニ、アルコール類と唐揚げ、5時ネット、
      11時半珈琲、12時入浴、歯磨、Tommy february6、grapevine、13時
      仮眠、17時立床、オースター「最後の物たちの国で」、ちくま学芸「ニー
      チェは、今日?」、有島武郎「或る女」、吉本隆明「言語にとって美とは
      なにかU」、岩井克人「貨幣論」、20時食事色々、珈琲、21時ネット、
      22時シェイクスピア「ハムレット」、24時外出、煙草購入、24時半ネット、
      25時伊集院アップス、歯磨き、27時アレント「人間の条件」、洗顔、
      30時就寝


      火曜日

      12時起床、洗顔、珈琲と煙草、ヴァレリー「テスト氏・
      未完の物語」、12時半ネット、Tommy february6、
      13時半仮眠、20時食事焼きそばと炒飯、20時半
      珈琲、21時江藤淳「作家は行動する」、パス「弓と
      竪琴」、22時クイズ名探偵2、痛快ガンガン行進曲、
      マジシャンズロード、23時外出、散歩、oasis、コンビニ、
      ビールと煙草購入、24時帰宅、25時ネットは広大、
      27時日記、27時40分ここ


      水曜日以降

      予定:起きる、飲む、読む、吸う、聴く、寝る。多分食う、呑む。


週替わり日記実存主義風味、その壱  投稿者:某J  投稿日:2002/02/13(水)03時54分10秒  ■  ★  

      金曜日

      存在した。


      土曜日

      存在した。


      日曜日

      存在した。


      月曜日

      存在した。


      火曜日

      存在した。


      水曜日以降

      存在する。


週替わり日記構造主義風味、その壱  投稿者:某J  投稿日:2002/02/13(水)03時55分52秒  ■  ★  

      金曜日

      存在させられた。


      土曜日

      存在させられた。


      日曜日

      存在させられた。感謝。


      月曜日

      存在させられた。


      火曜日

      存在させられた。


      水曜日以降

      存在させられる(かもしれない)


週替わり日記ポスト構造主義風味、その壱  投稿者:某J  投稿日:2002/02/13(水)03時59分52秒  ■  ★  

      金曜日

      存在させられてた、かもしれない。

      土曜日

      存在させられてた、かも。


      日曜日

      存在させられてた、ような気が。


      月曜日

      存在させられて、いた?


      火曜日

      存在させられてたと言うべき?


      水曜日以降

      存在する、故に我なし



>   投稿者:某J  投稿日:2004/02/13(金)03時28分33秒  ■  ★  ◆ 

      > http://www2.ocn.ne.jp/~schizo/dame.html
      > 某Jよりよっぽどましだと思うよ

      どんな答えを求めてる?お好きなものをどうぞ。

      1,なんで凡俗下賎な俺ごときがこの一見するも艶やかなる御高貴な才人と
      「凄さ」をめぐった天秤に乗せられてしまうのか、比較そのものが既に
      恐縮すべき無礼じゃないか、君。

      2,他人を見比べて四の五の言う暇があるなら少しはどこがどうよっぽど
      マシなのか比較的に指摘できるぐらいには自分を磨きなさい、君。

      3,何でも持続的に表現すべき自己を持てるってのはイイことだねえ。それより
      非モテ系RING云々ってのをよく見かけるんだけど、何?読者戦争の一環か、君。

      結論、西尾より舞城のほうが気質的に読める。


>   投稿者:某J  投稿日:2001/06/10(日)23時34分18秒 

      > Д`)ばーか

      Д`)あなたはこんな黄金時間帯に何を思って「ばーか」なんて書き込みをしているのですか?
      全くどうしようもない人ですね。
      どうせこれから書き込みが終わったらネットから切り離されて
      一人寂しく録画した劇空間プロ野球を見ながら溢れた目脂で
      閉じそこなった白目剥きだし状態で泣き跡だらけの頬を湿気を帯びた
      畳の上に押しつけテレビも電気もつけたまま眠りについた翌日に
      右頬に消えない畳みの痕跡がベッタリ残っているのを洗顔中の
      鏡越しに発見したことで溜まりに溜まった今後の社会生活の不安の
      狂奔に駆られたあげくに翌々日の社会面の一覧を宅間ワナビーとして賑わすのでしょ?
      もう少し大河ドラマを見てみなさい。
      あなたがそうやって自堕落な生活をしている間に北条時宗はゆっくりだけど動いていますよ。
      元寇の放送回だってそのうち終わっちゃって、「あの時は敵船多くて大変だったよな」って
      昔話になる時代になってしまうのですよ?
      そもそも「ばーか」ってどういう意味ですか!
      柳田の言う語源的な意味での馬鹿の概念範疇を踏まえた発言と捉えていいわけですか!
      まったく本当に。


>悪い土(朴正煕)  投稿者:某J  投稿日:2004/02/07(土)02時49分16秒  ■  ★  ◆ 

      > 形而上という言葉について説明して下さい

      昔に書いた覚えがあるが、過去ログは処分しちゃったので、形而上。
      アリストテレスから説明しなきゃならんのか。帝政ローマ時代、アリストテレスは
      プラトン譲りの教理のゆえ(?)に国家的に迫害されてたので、既に起草した
      自然学(physics)の後(meta)の一冊をエジプトのどっかに隠した。そんで、おおよそ
      千年後、どっかのキリスト教教団が家宅捜査中にその一冊を見つけた。それが
      形而上学(meta-physics)、それを元に聖トマスがアウグスティヌスの二元論を
      自己実現のドライブによって階層的に一つに束ね、俗世に干渉する聖者を正当化する
      教会の腐敗を招く遠因を作り上げた。後年になると、自称聖者の詭弁を冷嘲する
      意味で現実と結びつきのない思弁一般を指すようになる。翻訳の契機については
      よう知らん。哲学っていう造語、陽明学者の一語から賢知学という造語をPhilosophy
      にあて、賢を削り知を同義の哲に置換した西周とか井上哲次郎あたりがまあ関係
      してるんじゃないの。以上、辞書的なテキトー説明、了。


一億数千数百数十万総批評家時代  投稿者:某J  投稿日:2004/02/03(火)22時44分34秒  ■  ★  

      最近ようようテキストサイトをボーヨーと経巡っていると思うことだが、
      唐突に人文的に懐かしい話になるが八十年代あたりの文学場にはバルト
      あたりなんかから作者の死が喧伝されたなあ、と。作家が構成を支配し、
      解釈の自由度を制限し、意味の方向をめぐる手綱をしっかと作品内に
      掌握するといった古典的な作者概念が崩壊し、かわりに作品の読みこそが
      作家像を如何ようにも捏造しうると叫ばれた云々というのはまあおそらく
      文芸史的な常識の一つで、従来までの作品論やそこに依拠して展開された
      数多の作家論の息の根を封じ込めようとする下克上の現れみたいなもんだった。
      読書の地平における作家という厳格な父を殺しあげうる理論的な射程が整備され
      完成してからは作品の覇権を握るのは作家でなく読者になったわけだ。

            作者    
                 ↓
            作品  
             ↓
      .... 読者 読者 読者 読者 ...

      作家、作品、読者、この三者をめぐるヒエラルヒーが
       
            作者
             ↑
            作品  
             ↑
      .... 読者 読者 読者 読者 ...

      と、くるっと反転する。既に作者は神の玉座から引きずりおろされ、読者が
      自身を語るためのダシになり、要するに居ても居なくてもどっちでもいい感じ
      になる。つーか、むしろ居ない方がいい。著者は引用の織物(懐かしい!)の
      結節点に凝集した仮象だし。そもそも著作者とは著作概念の引写、出版社の
      経営対策の過程から生じた経済概念の一つだし、そんな奴らの独占を許して
      いいのかと告発する左翼的な気質もあり。作者=出版社=資本の横暴のもとで
      食い荒らされた我らが自由を取り戻せ!バルトの理論的な前提が当時のマオイ
      ズム華やかりしパリ中心で育まれたことも関係するだろうが、まあそれはそれ、
      これはこれ。新批評も作者にはかなりというかむしろ従来のそれよりも多くの
      敬意を払っていた。愛ゆえの深読み。でもこーいった概念が人口に膾炙する
      ほど浸透するとなれば、その実質はボロボロに崩れ、気分としての消費、ある
      いは貧血的な洗練が始まる。そうなれば作者は常に蔑ろ。
      すると、

            作者
             
            作品  
             ↑
      ....→←読者→←読者→←読者→←読者→← ...

      作者にフィードバックされることもなく、作品から摂取した養分の美醜を
      読者同士が意見交換するねじれた互酬制の開始。作者という父の暗殺を
      めぐった闘争にはまだ健全な垂直的な力学が作用していたが、遺産処理が
      終われば近親者同士が自身の取り分について喧々諤々の論争を仕かけ合い、
      互いが互いの優越を誇示しあって引かぬ水平的な、それゆえほぼ不毛な
      ヘゲモニー闘争が!ちょうど時は情報革命。(モ ゚Д゚ リ)ですらやってました。
      自身の卓越を示すために同人雑誌(!)を刊行するといったこともなく、ただ
      ネット上でそれっぽい駄文を垂れ流しパフォーマンスと癖で他の読者の客引きを
      競い合えればOK。生活言語から身を切り離し、知識言語への参入を果たす
      パフォーマンスの一環には自身がいかに繊細可憐で神経質な感性の持ち主で、
      愚鈍な有象無象のいわゆる大衆とは異なるかを示したがるという卓越化の技法が
      潜在するといったのはブルデューだが(ついでに、大衆とは他人と違うことを
      言いたがる存在だと言ったのはニーチェ)、その技法を補助してあまつさえ
      卑小な縮小再生産として加速させやすいネット環境はまさにおあつらえ。
      かつては作家が読者を奪い合った by 発行部数。今や読者が他の読者を
      奪い合おうとする by カウンター数。でも唯我独尊ではやれぬ!したがって
      相互リンクは不可欠。常に互いに監視しあい互いに相争う。まあ戯画だ。
      ここまでくるともはや作家のみならず、作品も不要にすらなる。だから
      人文系の書籍が売れねえのか。まあ関係ないだろうが。おそらくこれが
      一億総批評家という言葉の実態だろう。まあそんな言葉があればの話だが。
      まさにジャンク!


失語症予備軍  投稿者:某J  投稿日:2004/02/07(土)02時31分43秒  ■  ★  

      そういや最近二歳までのガキにはテレビを過剰に観させない方がよろしいという
      勅令が発布されたらしく、ウチの近所でもその話でまあ持ちきりでは一切ないん
      だが、とかくこの世は住みやすい。まあ何でもやりすぎはいかんよ。っていうか、
      なるほど乳幼児の、母と一体化した想像的な全能感を断ちきって父が支配する
      言語の世界へと脱自己愛化を果たしながら、言語を欲動の基底に植えこんでいく
      過程で視覚的な同一化の契機が言語習得のネックになるかぎりで、メディア
      環境の爛熟は無意味な情報の断片を一つの意味として受け取り、文脈のハイパー
      メディア的な擾乱を知覚的に束ねるための解読格子を未だ持ち得ないガキの
      主体生成にとって百害なのはまあ既に言うまでもないお約束というか、まあ
      昨今のガキに通弊しがちな情緒的な紋切り型の氾濫は飼育箱の環境が知覚重視型
      から視覚重視型へと、黙読文化から映像文化へと移行することによって絶え間なく
      自身に切りこんでくる他者のスピードが反省の速度を凌駕し、それらを想像的に
      排除しながら内面の密室を滋養していくべき想起の時間性が狂い始め、諸印象の
      束を自身へと知覚的に統合する言語的な契機よりも視覚的な同化処理による
      簡便さこそが、まあ判断の慎重さよりもアドリブ的な即興性こそが関係の場の
      なかで重宝されだしたことに起因するわけだしな。

      想起の時軸のなかでは無数の言葉の中から最適な一つの文脈を選出する手際が
      内面の賦活に資っするかぎりで言語運用の巧拙こそがまず問われるが、今や
      諸印象の分裂的な共存をうまく縫い合わせて視覚的な共鳴を引きおこす感性的な
      フットワークの軽さこそが社交の一場で問われるならば、言語的な力は衰えまくり、
      ヤコブソン風にいえばあたり一面に統語論的な失語症(うぜえやキモいの連発!)
      がわんさか湧き出てくるのも、まあ見やすい事実なんかねえ。つーか、テレビの
      視聴時間の異様に長い生活環境云々ってそりゃ育ててる親の気風がマトモか否かと
      いう単純な事実に端を発するだけのこともするけど。マトモな生育環境であれば、
      ガキの無菌室も規範的に整理され、労働力商品としての規律訓育もより良く望め、
      社会への船出も可能性豊かに選択できるミドルアッパーになれるだろうが、ロク
      でもねえ親に当たればロクでもねえ教育と糞にもならない保護のもとで将来も
      しっかり閉ざされるロウワークラス予備軍行きはほぼ確定。八十年代後半から
      生じた資産の不平等化はこのように日本においても徐々に階級分化を推し進め
      ていくわけやねえ。おー、怖い怖い。

      しかしまあ、主体、つまるが人口に膾炙される規範的な意味での理想的な人間の
      根幹とは欲望のことだとラカン風に言ったところで、そもそも自身の欲と欲する
      対象との懸隔こそが生に密度を充填するとは少し考えれば馬鹿でも分かることだ。
      欲しいものが手に入りやすくなればなるほど、未来の目標との関連のなかで現在の
      生を活かそうとする実質が空洞化し、あげく欲望の焦点が欲望対象の背後に広がる
      無の牽引力であるかぎり、その深淵を想像的に覆い隠そうとするフェティシュ
      めいた衝動も強まる、と。未来への企投が言語的な開示のうちでのみ実現され
      うるならば、未来志向的な意識が弱まり、現在への充足に傾きがちな視界の
      周囲には失語症めいた貧しい空疎さのみが際立って浮き彫りになるのも、これ
      必至。これぞメディアの心地よき暴力、メリットはデメリットと常に表裏一体、
      まあ当然だわな。


眼精疲労が酷い  投稿者:某J  投稿日:2004/02/13(金)03時04分31秒  ■  ★  

      先週あたり、知人と連れ立って居酒屋に出かけ歓談三時間といった合間に周囲の
      喧騒に雑音交じりで紛れる微小さで店内有線越しに耳元に響き流れるあの曲は!!
      という感じに国生さゆりのバレンタインキッスから滞在時間のあいだにおおよそ
      三回以上は八十年代秋元系アイドル歌謡特有の脱力的に泥臭いメローさを武器に
      して執拗な猛攻を受けてもみれば身も心も卑しい系に成り下がれる有難い僥倖を
      喜ばざるをえない今日この頃、そういやなるほどバレンタインキッスなデーまで
      秒読みだよ、ミトン君!

      お約束としてバレンタイデーに関して伴天連系の宗教行事をモードとして消費する
      ニッポ〜ン人的な浮薄さを嗤ったり(丸山系)、あるいは企業の促販イメージ戦略
      の尻馬に便乗してはしゃぎ踊る軽佻さに鼻白んでみたり(左翼趣味系)、交換の
      原理がいかに社会的なコミュニケーションの総体にとって重要な契機を形成して
      いるかをチョコという商品に託けて物思ってみたり(ホッピー社会学)、贈与と
      いう行為に潜在する他者の脱他者化をめぐる実存的な欺瞞を得意気に謳ってみる
      コウショーな思弁に沈んでみたり(初期サルトル!)、聖バレンタイン?の哀切に
      想いを捧げてみたり(カセット通販演歌系)等など、まあモテない野郎の僻み
      根性を取り繕ってくれる手品の種は人の数だけ吐いて捨てるほどあるんだろうが、
      実際配るほうも返すほうも面倒なんだよ。ということで、なんでバレンタイン
      デーは主に異性間の交渉に限られるんでしょーか、という分かりきった題材に
      冗長に入り込んでみまひょーか。

      そもそも言語という他者の介入により外界と内面を結ぶ機能的な円環がぶっ壊れ、
      本能に拠った有害と無害の弁別ランプが欲動の混沌のなかで狂いまくり、意味の
      磁場を通して視界の整理を常に更新しつづけなきゃならなくなったような悲しき
      存在者こそ人間の醍醐味。世界を内外の環界を媒介にしてゲシュタルト的に構成
      できる有機体なら発情時期は本能のうちに定められるが、そうもいかない欲動を
      抱えた人間にとって性は自身の生理学的な条件であると同時にそこには還元でき
      ない過剰さを持ったまっこと奇妙な代物ですネ。この性の管理こそが人間が
      単なる自然界の動物から文化を営む主体へと移行する際に目安となる変更線で
      あると昔懐かしレヴィ蔵と共に確認すれば、性をまず人間の本質とし、第二に
      異性生殖を規範化し、第三に変態性欲をその中心の周囲に階層化するという
      性の管理式が資本の要求とともに登場しはじめる光景を上野某会館の主改め
      フーコーと一緒に目撃する瞬間まではもう一歩、と。これぞ近代の曙光!

      で、マルクス主義の基本を復習すれば、資本主義は非資本主義的な外部要因、
      端的には自然と家族という外部に寄生しないかぎり成立しないとは既に飽きる
      ほど繰り返されたネタ帳の一ページに過ぎないわけだが、労働力商品という
      働き手を定期的に生産する場が後者に全面的に委譲され、家をめぐる対幻想が
      各種メディアというイデオロギー装置を通して華々しく吹聴され、安心して
      資本は自身の足場を支える多様な礎石を後々に期待できるという出来レースが
      反復される、ってか。しかし労働力商品それ自体が商品一般の体系にとって
      前提される等価性のヴェールを剥ぎ取り、そこに収納されない剰余を指し示す
      矛盾の間欠泉ではなかったか!だからこそこの穴をめぐっては甘い流行歌が
      際限なく流れ込むわけだが、閑話休題。まあ以上のことはむしろフツー。

      この際に、禁欲と勤勉をネックに家という磁場をめぐって資本主義の精神を
      実演していく労働のエートスがどの程度に共有されているかに関する深度計は
      異性愛を規範と考える視線の多さによって測られるとすれば、最近まあ巷間に
      溢れかえる同性同士のチョコ交換はそのチョコの本懐とは全く逆効果を示す
      ことにしかならないにも関わらず資本の実現行程にとっては決して排除でき
      ない歓迎せざるお布施人ってのは、まあ脱近代の皮肉ってやつか。何らかの
      イベントに関する無数の吹聴がかえってそのイベントの底意を穿ち壊し
      てしまうという逆説がバレンタイキッスな前後三日にも見え隠れするってのは
      昨今あまりに月並みすぎて退屈ですなあ。要するに携帯用MP3プレイヤーの
      購入計画を前にして足踏み状態でもう一ヶ月も待ち惚けも阿呆臭いなあって
      ことですよ。


インフル君  投稿者:某J  投稿日:2004/02/13(金)04時10分16秒  ■  ★  

      一週間ぐらい前か、二週間前かな、インフルエンザに罹患して高熱朦朧と
      三日ぐらい過ごしながら、今や快調。一日目、身体が気だるく、何をするにも
      いつもながらの億劫な感じに蝕まれ、熱っぽさにまかせて体温計れば八度五分
      ぐらいあったつーことで、さっさと風邪薬を飲んで、二日目、まだ体調は
      よろしくなく医者に出向こうとするが寒風吹かれて足を運んだ近所の総合
      病院は運良く休業、一つは潰れ、しょうがないので生姜湯呑むこともなく
      さっさと寝て、三日目に休業日明けの病院に出向いて鼻の奥に綿棒突っ込む
      検診受けるとインフルエンザですねえとインフォームドコンセントもない
      商売気あるそっけなさで重大でもない事を宣告され、気分は旧正月を迎えら
      れずにバード化したベトコン並みに晴れ晴れしたにも関わらず大量に処方
      された薬物をスニッフイングすると噎せるだけなので水で飲んで寝てたら、
      四日目には体調が快方に向かい、近場の図書館内に設置された出張区役所
      小場に出向いて書類集めに奔走し、帰り際に新潮で連載されてた井口時男の
      最終稿を読もうかと図書館に上がり奥の間に進めば受験生が必死こいて
      勉強してやがったので残り少ない風邪ウイルスを撒き散らしてから帰路に
      つき自宅で読書するが気分が優れないので読書しつつ、風邪の熱っぽさに
      うなされると奇妙な夢を見ると言うが、俺はいつも通りに眠りの上澄みを
      掬い続けるような不快な茫漠感を漂うだけでロクな夢も見れないから
      コナカのフレッシュマンスーツを買う資格もないだろうと往生際よくコンビニで
      木曜発売週間漫画誌を適当に読み流したあと色々と思いつくわけだが、例えば
      日頃物事を考える習慣を失うことによって今まで全く満喫できなかった快適な
      睡眠時間を取り返すことには成功したが、それによって今まで見れば必ず虫唾が
      走っただろう様々な事象に対する免疫が一挙に付くことにもなるのは喜ばしいのか
      否かどうかも映画は基本的に嫌いで風邪が快調に向かう過程の暇つぶしの一環に
      ビデオをようよう鑑賞するも何の感慨も感想も持てないし持つ必要も感じられない
      作品に当たってしまったことにむしろ問題があるのだろうかとキューブ2とか
      観ながら思うわけだが、これは前作に露骨ににじみ上がってた不条理感というか
      球体内への移動をこの世に生れ落ちたことに模し、閉塞をカミュ的な不条理と
      かけ、内部での人間関係の葛藤をそのまま社会の戯画へと写し、入り口が
      出口だったというオチに生と死のニヒリスティックな円環を結ばせ、脱出という
      恩寵を受ける最終人物を世俗の俗塵に汚れない純粋無垢な人間改め精薄に繋げると
      いった技巧的には実験性が高い割には内容的には学生映画的な思弁の拙い
      鬱陶しさが濃厚だったが後者を凌駕するほど前者の配置連関がクールな緊張感の
      演出に向けて精緻だったおかげで成功した前作のベースをなぞって存在論的な
      不条理を政治的な不条理に格下げし都合のいい省筆とそこに絡めた設定説明が
      全体的に生ぬるいダルダル感を蔓延させすぎで面白くも何ともないのは単観
      上映系の続き物の常なのかまるで呪怨ばりとしか思えないわけだが清水崇も
      目の前の人参に引っかかって失敗したなと考えることもなく思えば、そういえば
      あまり考えないで手持ちの札を使いながらネタの自動筆記をすると大概のオチが
      逆説云々になるってのはあまりよろしくない傾向なわけだが何かを強引に考える
      ことにウンザリしきった期間を未だに長引かせる自家中毒っぷりがその原因で
      あることも分かってはいるがだからといって問題はなし。


歴史が言葉  投稿者:某J  投稿日:2004/02/13(金)05時09分22秒  ■  ★  

      人間には必ずその人固有の文体ってものがあるわけでこれはまあ教育過程で
      習得した既成の構文体系を土台に語るという行為がその全体を自身の知覚空間の
      時空的なパースペクティブに最も適合した語りのあり方をその当人に開いてく
      れるというメルポン的な発想なわけだが、例えば美しい日本語の現在を称揚する
      数多のゴミ駄文が示すような規範的な文法というものはむしろ生活の実質や
      心意と結びついて生活の局面局面を通して何らかの内的な感慨と結びついて
      鍛え上げられてきた言葉の肉感性を殺して現実との接点を失って辞書的な
      青ざめた目次表に骨董品のように記載された言葉の数々を洗練された形式と
      して中央公用語化していく近代教育的な作法の一つであるとは既に柳田が
      マジ切れしながらここは折口とタッグを組みつつ主張してきたことだがこれが
      思考の機軸を放棄する期間を実体験することでより近しく感じられてくるのも
      これまた一つの事実なわけだとすれば、例えば巷間に流布する一言感投詞の
      氾濫に如実に見て取れるようなモロ病理的な失語症状もその本人にとっては
      知覚を統御してくれる文体のあり方ということになり世間的な流れとして
      そのような意味との結びつきを失ってさらには気分との繋がりから乖離して
      ほとんど情動のストレートな表現とでもいえるような、もう村山愧多の詩句に
      見られるような自意識の分析的な操作を媒介しないストレートな言葉の露出狂が
      何の技巧的な洗練や内面的な呻吟もないまま一般化してくるのかと思えばちょっと
      憂鬱な気分になりもしないが、まあ感投詞の自立化そのものは例えば固有名詞の
      フェティシュ化と同じ類の裏表といった感じで、うぜえという投げやりな言葉と
      メルポン曰くみたいな勿体ぶった言葉の羅列は双方共に統語論的には無数の言葉の
      群れから文脈を形成すべき場のなかで小粒でもピリッと辛い単なる一つの
      アクセントでしかないものが異様な呪術的な価値をもって発した人間に安心感を
      もたらすほどに屹立しちゃってる現象という点では根は同じなんだろうから俺も
      姿形こそ表面的には異なれど同じ穴の狢さ!というか、こーいった考えの退屈さ
      が嫌でいい加減にテレビでも見れば深夜再放送版、その時、歴史は動いた!
      そのときは目頭を轢死させられる思いにもなるわけねえだろうつーか、与謝野
      晶子がああちゃらとかやって真の人間性がふんちゃらとかほざいてたけど都市
      貧民階層を食い潰し、帝国主義的な膨張の波に乗って後進国を植民地化してた
      ような大正時代の小春日和のなかで題目どおりのヒューマニズムをのほほんと
      謳われても胡散臭くてしょーがないし、子規が病床六尺で短歌革新ふんちゃら
      って言ったって子規自身が言葉の自由連想を排した一対一対応のリアリズム的な
      言語観という目標からは随分遠いテクスト論的な共鳴を例文のなかに呼び込ん
      じゃってるようなシーンだって多々あるわけでしょうし、記号から記号へと
      意味の根拠を無限代替させる際限ない戯れでしかない言葉の諸々にこれはこれ!
      あれはあれ!と対応関係を結ばせようとする禁欲主義そのものに無理があんのに
      そーいった視線というかまさに伝統的には古事記で既に一端を垣間見せるほどに
      伝統的な言語観は一切排除しなんや歴史上の偉人が死を賭して短歌革新しました
      よ〜みたいな泣きの与太話にネタを持ってくとことか歴史が死んでるだろうよっ
      ていうか、漱石はなんか寄る辺無き青年諸氏に進むべき道を指し示す国民作家
      みたいな漱石神話、江藤がぶっ壊したはずの神話化のエートスに煙に巻かれてるし、
      かなり苛々させてくれるがこれぞ日本放送教会が果たすべきメディア的な役割、
      例えば言葉遣いに正邪の弁別を勝手に設けて捏造しあまつさえ全国ネットで
      再生産するといった放送禁止用語辞典を後ろに控えさせるNHKの、そんな理念形も
      同時に示してくれるところはかなり親切ではあるが、しかしこういったNHKの
      教養系作品が大好きな奴って司馬遼とか好きそうで現在の社会的な逼迫状況を
      幕末の活気ある混沌に模して、青年よ大志を抱けみたいな昨今流行の明治ブームの
      アジテーションにすんなりはまってるっぽい、感性が中間管理職的、つまり枯れに
      枯れきり昭和枯れすすきが似合うぐらいに昭和好きとなれば終局レトロブームに
      話が移る。



     ぶり騙り推進 某J語録 哲学系 文学系 ウオッチング


某Jの掲示板 からの転載をまとめたものです。


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